メトロポリス


metoro
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/16_metropolis/より引用

日曜日にメトロポリスを見てきた。舞台ね。シアターコクーンでやってるやつ。
松たか子と森山未來が出てる舞台。他の出演者はあまりぱっとこないので、記憶なし。というかこの舞台はこの二人を観る舞台だった。

基本的な感想は、よく分からない、そして眠い。以上。
ただし、松たか子の歌唱と森山未來のコンテンポラリーダンスのような表現は価値あり。

ただね、終わった直後はそんな感じだったんだけど、帰りの電車の中で思い返していくと思いの外いい舞台ではなかったのではないかなと。

まず、この原作が90年以上前のSFものだったということ。どこまで原作を再現しているのかはわからないけど、90年前のものが現代社会にも当てはまり、なおかつ皮肉っていうように感じられるということは人間社会が90年程度では進歩していないか、もしくは90年前に未来を想像した作者の想像の分析力が優れていたかのどちらかかということ。まあ、現代の観賞者に的確にメッセージを与えるために演出し直した可能性も大いにあるけど、実際のところは特に意味がない。ただ、現代社会の問題点を誇張して表現していた舞台だったのかなと思う。

簡単にあらすじを、公式HPより引用しておこう。
「メトロポリスの主、フレーデルセンの息子フレーダーは、労働者階級の娘マリアと出会い、恋に落ちる。彼女を追って地下へと向かい、そこでメトロポリスを動かす巨大な機械と、過酷な労働を強いられる労働者を初めて見たフレーダーは、社会の矛盾に気付く。一方マリアは密かに集会を開き、労働者たちに忍耐と希望を説いていた。「頭脳(支配者)と手(労働者)を仲介するのは心でなくてはいけない。仲介者は必ず現れる」と。それを知ったフレーデルセンは、旧知の科学者ロートヴァングにマリアを誘拐し、製作中のアンドロイドをマリアそっくりの顔にして、労働者たちの間に送り込み、彼らを混乱させろと命じる。アンドロイドは見事にその役割を果たし、労働者は暴徒と化して機械を破壊、メトロポリスも音を立てて崩れ始める。そのために労働者が住む地下の町は洪水に見舞われて…。フレーダーは、最初に出会った労働者の若者や、父が解雇した元秘書などの助けを借りて、マリアと地下の町を救うべく立ち上がる。」公式HPより。

この主人公マリアを松たか子が演じているわけだけど、あれ、これミュージカル?と思うくらいに松たか子が歌う。フルで3曲くらいは歌ったかな?松たか子のブレさのまったくない歌唱方法は好きなので聞いていて気持ちが良い(心地よくてちょいちょい眠かったけど)。そしてマリアとアンドロイドのマリアの二役を当然演じているんだけど、演じ分けの仕方が興味深い。アンドロイドの方がむしろ感情が豊かで起伏のボリュームも高く出しているようだった。もはや、生きる機械とかしている労働者階級のマリアの感情を抑え(労働者階級の他の人々よりは格段に感情というか人間味は強いが)、アンドロイドの感情を爆発させているのは、そういった皮肉を込めた演出の一つなのだろうか。ただ、アンロイドのマリアの笑い方は過剰というほど高笑いであり、これはアンドロイドはやはり、「笑う」という感情表現が難しいというイメージから来ているのか。舞台全般を通してあまり笑うという表現がこのアンドロイドの松たか子以外になかったような。それもこの笑いの違和感を際立たせるための演出か。そしてこの笑い方を見て感じたのは映画「A.I」でオスメントくんが演じたロボット。あの不気味な笑い方。ロボットには笑うという表現が難しいという発想を抱くことは優位性を保ちたい人間の防衛本能のようなものなのだろうか。安直な気もするが、わかりやすい。もしくはオマージュの可能性もあり。どちらもSF映画の歴史に残る一作であるしね。
そして、最後のシーン。アンドロイドマリアの扇動にのって家族や自分の街が危機的なことに陥ってしまった責をマリアに負わせ、焼き殺すという展開。これは現代の「炎上」を意識した表現なのかな。確かにきっかけを与えたのはマリア。ただし、これまで考えるということを放棄し、ただ、指示されるがままに労働についていた人々がそのシンプルな扇動に飛びつき、その後にどうなるか自ら想像することはなく飛び乗った。そして一度できた波は瞬く間に大きくなって全ての人を飲み込んだ。そして最終的に被害を被ったことにより、自分の責めるべき非を忘れただただ、扇動したマリアを責め立てる。あ、やっぱり似てないや。現代の場合は当事者でない人たちが問題を起こした人を責める場合が多いものね。今回はみんな当事者な訳だし。ただ、焼き殺されたのがアンドロイドのマリアだったのか本物のマリアだったのか分からないと、劇中でも述べられていたけど、そういうところは現代に通じているかもしれない。結局事実はどうでもいい。責めるべき人間を見つけて攻撃する。それが本人であるのか、本人の仮面を被った別の誰かに関わらず、その表に立っているもの攻撃する。それにより何が改善するわけでもなく、何が許されるわけでもなく。そもそもマリアは影響力のある、声と顔を持ってしまったということが罪だったのかもしれない。
 次にフレーダー。こちらは森山未來。こっちはうじうじしたお坊ちゃんで終始よくわからなかった。ただ、スローでの動きや体の関節の可動域を意識した表現は見もの。未来くんを起用したことを存分に生かした演出になっていた。あとは最後になってわかったが、フレーダーみたいな白いジャケット(支配者階級の象徴)を着た人が父親や、アンドロイド開発者以外に何人かいたが、これが結局フレーダーの別人格というか分裂したフレーダーという解釈で良かったのだと思う。ただ、こいつらがいたせいで無駄に舞台が混乱していた。最初からそれを把握した上で見たらもう少し理解がしやすかったのかもしれない。基本的にこの舞台。衣装に特徴がない。労働者階級は皆灰色の薄汚れた服を着ていて、支配者階級は白いジャケット。ぱっと見で階級の差が明確に表現されることはこの舞台のテーマを考えても重要なポイントなので、致し方ないと思うが、そこがまた、「よく分からなさ」と「眠くなる」を助長してしまった感は否めない。やっぱり、フレーダーが3人であった理由がうまくこちらに伝わってこず、そもそもその表現の必要性もよく分からなかったのが一番の問題か。
その他は何かなあ。舞台美術が良かったのかイマイチだったのか、なかなか判断が難しい所。背景のメトロポリスの高層ビル群の舞台美術があまり目立っていなかった点、可動式の階段と骨組みが合わさった舞台装置がメトロポリスの高層裕福居住地と、地下街が兼用で表現されていた点がダメだったのかなあ。
可動式であることで、舞台全体を俯瞰してみたときのバランス、絵が変わることによる楽しさ、兼用とすることでライトの表現で同じ舞台上において場面転換が容易にできる点、その点は良かった。その点は良かったんだけど、うーん、前述したデメリットも気になってしまって難しいな。いい試みだったとは思うけど、完全に成功はしていなかった。もっと全体的にシンプルでわかりやすいテーマであればこの可動式、兼用という舞台装置は生きてきたのではないかなと。

まあ、そんなとこ。あとは趣里っていう女優さんがでてて、最近急に見るようになるなあと思ってたら、水谷豊と伊藤蘭の娘だった。そりゃあ使われちゃうね。かつ、バレエをやっていただけあって、森山未來に負けない体での表現もよくできていたので、本人にやる気があればいい女優さんになるんでしょうね。
観賞直後はイマイチだったけど、よくよく思い返すといい舞台だったのかと思うも、やはり丁寧に考え直すと、まあ、見どころは松たか子と森山未來のみで、舞台全体は凡々といったところではないでしょうか。昔観た松たか子のノダマップは今回の倍近い上演時間だった気がするが、あっという間で面白かった気がする。
あー、結局この舞台、魅力的な役どころが二人しかいなかったことが問題だったのかも。どれだけいい話でも印象に残る登場人物2人では持たないよ。1時間ドラマだって4,5人はいるよ。
さて、せいじも小説書こう~。舞台化してもらおう~。

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