夕方、遅い昼食か、早い夕食か、わからない食事をとりながら、
何気なくテレビ見ていた。
年末なので、1年のニュースを振り返ろう的番組である。
その中で、東日本大震災で被災した子供たちのその後といったコーナーがあった。
なぜ、今年の振り返りで震災の話が?と思ったが、
なんでも、大川小学校で被害にあった児童の遺族が今年裁判を起こしたらしい。
そして大川小学校で生き残った少年の当時のインタビューが流れた。
服装や周り状況から判断して、震災直後というよりは数週間は過ぎていると思われる。
その少年は自身も津波に飲み込まれたが奇跡的に助かったらしい。
しかし、妹や祖母、友人は死んだ。
その少年がインタビューに答える。
「死んでしまった、妹や友達の分まで生きたいと思っている」
正確ではないが、このようなことを自然と答えていた。
これは、まわりの大人に散々言われたことなのではないかと思った。
「死んでいった人たちの分まで頑張って生きてね」といった風に。
そして少年も自然と「死んでいった人の分も頑張って生きよう」と思ったのだと思う。
大人って罪深い。
自分一人の人生でさえ生きていくのは大変なのに、
人の分も生きるってなんだ。
それをただの被災者の少年に強制させる。
死んだ人の分まで生きる。
誰が最初に言ったのか知らないが、割と耳にするフレーズ。
だが、生半可なことではない。
冷静に考えれば不可能な話だ。
まあ、「精一杯生きる」といった類の言葉の誇張表現と受け止めればいいのだろうが。
少なくとも他人が誰かに向かって口にしていい言葉ではないと思う。
この少年が、自発的に、妹や友人の分も頑張って生きようと思ったのならいい。
しかし、そうではないなら、
そう発言することに疑問を持たなくさせてしまった周囲の大人たちは罪深い。
他人の人生に口出しするときに、
その人の人生、背負う覚悟があって口出ししているのか聞きたい。
そしてある意味わかりやすいインタビューのその部分を使ってしまう、
編集者の単純な仕事に、組織の中で仕事をする可能性の狭さを感じた。
震災から3年9カ月後の現在の少年の姿が画面に映った。
少年はしっかりと生きているように見えた。