コラム「今日のせいじも可愛い」 第1回『坊主も仕事』


 コラムのタイトルは「今日のせいじも可愛い」に決まった。
最近、あまり可愛いと言われないので、自分で言う機会が増えている気がする。少し悲しい。
 
 さて、第1回のタイトルは「坊主も仕事」だ。なんでも東本願寺のお坊さんが未払いの残業代を請求したようだ。お坊さんの活動のどこまでが仕事で、どこまでが修業なのかは判断が難しい気もするが、ここまで来たかと思った。
 せいじは仕事についてはよく考える。せいじは基本働きたくない。というか、自分でお金を稼ぎたくないのだ。理由は一概には言えないのだが、やはり、お金を貰うことが前提になると、その活動をする際の感情が消えてしまうからだ。楽しいとも思わないし、つまらないとも思わない。正確には多少の感情の動きはあるのだが、対価をもらう仕事なので、そういう気持ちを抱くことがおかしいという価値観で無意識的に感情を制御しているのだと思う。
 好きなことを仕事にしようとすると少しずれる。好きなことをしていたら勝手にお金が入ってきただと、まあまあよい。理想はお金のことは全く気にせず、好きなことをし続けることだが、現実として、それはなかなか難しいということに気づいてきたので、今のところ、2番目を目指している。
 働きたくないと思ったことがある人はほとんどだと思うし、働きたくないなと思いながらも働いている人も少なくはないはずだ。ただ、せいじのように働きたくないので、働かないという選択をする人は恐らく少ないだろう。
 ではなぜ、人は働くのか。答えは簡単で、生活するためにはお金が必要であり、それを手に入れる最も直接な手段が労働だからだ。なおかつ、働くという行為は直接的にしろ間接的にしろ誰かの役に立っている行為である。だからこそ、対価が発生する。つまり、そこにやりがいや意味を感じることができるし、また、社会的評価も高まる。これだけ多くの人間が働いているのだから、給与が高いというのは相対的な評価軸としての機能も果たすため、そういったことで自信を持つこともできるだろう。つまり、働きたくないといいつつ、働いている人はせいじから言わせれば働きたいということと同義である。
 せいじも数か月前までアルバイトをしていた。必要最低限のお金を稼ごうと。そのため仕事はあくまで、せいじの時間をお金に変えるだけためのものだった。なのでもちろん、サービス残業など絶対にしなかった。勤務時間のちょうどから職場に入り、残業するときは1分単位で残業代を請求した。当然だと思う。昨今の過重労働や残業代未払いに対する問題提起が盛んになり始めたのはつまりこういうことなのだと思う。仕事に求めるのは対価だけという人が増え、あいまいな部分に不満がたまってきたのだ。
 60代の男性が新聞コラムに「サービス残業をしないなんて最近の若者は思いやりがない」といった投稿をし、プチ炎上していた。しかし、結局そういうことだ。
 友人が困っていたら、助けようとする。対価を気にすることはない。会社は今の時代、友人ではなくなってしまったのだ。大きな会社であればあるほど、経営陣と従業員の距離は遠くなる。会社のために経営者のために、身銭を切ってでも手助けしたいという感情を持つ人間が少なくなるのは当然だ。ただ、今の経営陣は60代、一族系の会長系も含めれば70代もいるだろう。そういう世代には今は大きな企業でも、当時は小さかった会社を苦労を共にし大きくしてきたという感覚の人たちがいても不思議ではない。そういった経営陣と若手の社員の間に感覚のズレが生じるのは致し方ないことだ。
 今回のお坊さんが残業代を請求するというというのもこういうことだと思う。指示がある以上、仏教の普及のためや自身の研鑽のための行為だとは思えないのだ。
 経営陣の判断で数千億の損失を出すニュースを聞くたびに、その反動が下請け企業の愛のないサービス残業に繋がってしまうのだろうと思う。社員の愛を得られない企業は潰れるべきだし、社員の愛に甘えている企業も潰れるべきだと思う。そこを厳格にして、成り立たない業種は報酬の体型を見直すべきだ。建築業界もそのひとつ。
 仕事は仕事であり、それ以上でも以下でもないという価値観を浸透させ、やりがいやら楽しさやらそういったものを求める風潮をなくしていかないと、働く側も働かせる側もお互い苦しみ続けるのではないかなと思う。
 かくいうせいじもやはりもう一度働かないと生きていくことが厳しいかもしれないと思いつつあるのであった。

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