バランス


最近、ちょっと人に書をあげる機会があって、一字書とか書いてるんだけど、
だんだん、自分が何をきれいだと思うか何を表現したいのかがよく分からなくなってきた。

なんだかんだ自分の流派の系統の作品が好きで、他の系統には違和感を感じていたんだけど、
そのトップの人っていうか、評価されてた人の作品はやっぱりなにか感じるものがあるなあと。

で、だからと言って、そっちの方向性に行くわけでもなく、かといって、自分の流派の系統を追い求めているのって
ただのものまねであって。どっちにしろものまねなんだけど。
まあそのものまねもままなってなくて。

っていうか、模倣はアートの世界ではむしろ王道であって悪いことではないんだけど、
そこにどう自分の色をプラスするかってことで。

で、なにが言いたいかというと、
せいじ、自分が表現したいものが明確になっていないってこと。
これ今さらって感じなんだけど、かなり致命的。

書道って、古典を踏まえて、読めなくてはいけなくてみないな制約をある程度感じつつ、線とバランスの美しさを追求していくって感じで、だんだん自分というものが薄くなっていくというか、あるんだけど、ゴール地点が別の場所に設定されてしまうような感じに陥ってしまう気がして。もちろんトップの人たちは確固たる個を感じるんだけど。

そもそも美しいって何?バランスがいいって何?
みたいな。

黄金比なんてものがあるぐらいだし、人間が本来見ていて居心地のいいバランスみたいなものってあるとは思うけど、ファッションの世界においてシルエットとか時代とともにどんどん美しいとされるものは変わってくるし、色彩だって、アメリカ人は青い色も美味しそうと感じるみたいで。それって青いケーキとかお菓子がアメリカだと割と普通になるからこその刷り込みでそう感じるみたいで。っていうことはせいじがいいなと思うものは、せいじが過去にどこかで目にして良い印象を得たものにひきづられているはずで。
つまり、それを追及するっていうことは結局は模倣を逸することはできないっていうことなのかなって。
いや、いろんなものをせいじの中で無意識に再構築していてそれを追いかけているわけだから、オリジナリティと呼べるのかもしれないけど、それだけだとどうしても足りない気がして。

それが表現したいメッセージとかそういうことなのかなって。
でもそれって意識して出すもの?っていう思いもあるし。
湧きでない人は表現者になってはいけないとは思わないし。
うーん、なんだか最近ちょとむやむやしてる。
っていうか、そもそも思い描いたものをそのまま表現できる技術も備わっているとはお世辞にも言えないしねー。

うーん。

うん、でも悩んでるのって芸術家っぽくていいね\(^o^)/
時間を最も人間的に使っている感じがして好き。